紙
Sunday, April 28, 2013
今年3月のトークイベントでセイケトミオさんが仰っていた「写真がどうかではなく、最終的に紙として欲しいかどうか」という言葉がずっと気になっていた。ランドスケープという言葉を日本語としてどう扱うか、ということに少し慎重になっている。一般的には「景観」や「景色」であり、それに観光的な要素や美しさという意味合いが含まれると「光景」。「風景」「情景」はあくまでパーソナルに見えた景色。
私がスナップするときは、おそらく無意識にどこかで見たであろう情景と重なりあったときなのだろうと思う。もちろんすべてが合致する筈はなく、光の方向とか、強さとか、何かのディテールだったり、いい風が吹いていたりだとか、そういった類のもの。ある感覚刺激に対して別の異なる感覚が同時に引き起こされる現象のことを「共感覚」というらしいのだが、最近似たような体験をした。あるジャズライブに行ったのだが、彼が紡ぎだすピアノの音のバランスや音の粒の美しさの中に身を委ねていたら、突然目の前に美しい色が渦巻くように広がった。メロディに合わせて形を変え、色味を変え、それは美しい世界だった。
そこまでは無いにしろ、たとえば私の写真を見て何か懐かしいような思いになるとか、良い思い出を思い出したりとか、そんな風に思ってくれたらそれはとても嬉しい。作者がフレームに収めた、いわゆる圧縮された世界を見る人が少しずつ解凍しながら見るのかもしれない。一度目は見えなかったけれど、手元に置いて何度も見ているうちに見えてくるものもある。そういった意味では、ある写真を所有するということはそのときの作者の体験を追体験するものかもしれない。写真集とは違って、オリジナルプリントの良さはそこにあるのかな、と家に写真を飾ったり、人に自分の写真を買ってもらったりするうちに思うようになった。
だから、「紙として欲しいかどうか」というのは私にとってはその写真の世界の中に身を置きたいかどうかという言葉になると思う。その写真があると、自分がまるでその場に行ったような気分になれる写真、と言い換えてもいい。
自分の理想とする写真の姿と、自分の撮る写真が次第に近づいてきたような感覚を少しずつ実感するようになってきた。だからこそ、その世界の完成形をしっかりと自分でイメージするのが大事なのではないかと思う。
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